11月
7
2011

現実、虚構、真摯。

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いつも頭に浮かんでくるのは、政治家が折に使う「国民に説明を果たしている」という表現だ。
そこには必ず、事実の一人歩きとともに誤解の付帯があると思うのである。

確かに、一連の言葉として文脈上に網羅される語句の中に潜り込むこともあればそれが説明に足りうることもあるだろう。
意図せず発した言葉が説明責任を果たした、と捉えることも場合によっては邪道的だが理屈としては可能ではある。

しかし、どのような言葉を用いようともそこに意識の本体が存在していなければ、伝えたはずの言葉が虚しいものとなってしまうだけなのではないか。

よく、言葉が響かない、言葉に誠意を感じない、などのような会話の意を図りかねている表現を聞くことがある。

話している方は真面目に丁寧に言葉を発しているのに、それがなかなか相手に伝わらない場合に、一方から不満の状態として出てくる表現だが、聞きたい言葉を相手が選択し、伝えたい言葉が相手によって無視されている限りにおいては、もはや真摯な議論としては成り立つはずはない。

いや、一方的にすら成り立たない。
議論未了か、途中退席か、サジを投げるか、である。

厳しい場面がここそこに見てとれる。

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