災害への備え

11月22日早朝、福島県沖を震源とする地震が発生した。

東京・南青山の宿舎にいた玉城も、地震の揺れで目を覚ました。

地震の規模はマグニチュード7,4、テレビをつけてみると即時に津波警報が出されており、メディアからも避難への即時対応が呼びかけられた。政府からも緊急対応する談話が発表された。

専門家からは東日本大震災の余震との話もあり、登院の電車へもダイヤの乱れなどの影響があるなど、終わることのない尽きることのない地震が多発する国であることを改めて知らされた朝だった。今なお被災地で生活する方々を思うと忸怩たる思いもまた入り混じる。

予見できない地震だからこそ、急に地面や建物が揺れる怖さはいいようもない。

だからこそ耐震・免震を含めて、できることへの充分な政治の「事前対策」を練らねばならない。それは効果があるのか否かの点検確認を含めて。限られた予算であるならば。

さて。留守がちの我が家の備えはできているだろうか。それもまた確かめてみよう。

はるかなあこがれ

その道のプロと言われている人にもいろいろいる。

プロらしさを表に見せないことをスタイルにしている人は、人の見えない部分を磨こうとスゴイ努力をしているひとでもある、と聞く。

表から見てもウラから見ても誰もが「そのひとはプロだ」とみられる人も、やはり自分のやることに自信を持つための、出来る限りの努力を積んでいるひとが多いと聞く。

そして、美貌であれテクニックであれ知識であれ、必ず何か「その人なりのプロとしての技術」を身に着けていて、それを持続させるための継続的な磨きを怠らない生活をするように心がけているのである。

「その道のプロ」として言えるようなものが、なにかひとつでも確実につかめれば、持っていれば、それが自信になって次の展開に繋がってゆくものだと思う。

自分にそれがあるとすればなんだろうなぁ。

肉を食べない、ビールを毎日飲む、下着を毎日替える、コンビニでもどこでも買い物した時にはこちらからも「ありがとう」と言う、物事の準備を怠らない、そんなことくらいかなぁ。

こんなことよりも明らかに欠点の方がもっともっと多い気がするなぁ。

プロの道は相当遠いなぁ。

ことのは考

言葉は、使われるそのときの言葉の持つ意味以外に存在しない。

「おはよう」はひとつの挨拶であり、「ずるい」は卑怯な手段や考え方など指摘するものである。

そして言葉は、使われ方や意図的な含みを持たすことによって、その言葉の意味通りに相手や社会に伝わってゆく。

その人が普段から思ったり、考えたりすることが、その人の有する語彙~ボキャブラリーになることからしても、そのひとが考えてもいないことが言葉となって出てくることはない。

「あのひとは素晴らしい」も「彼はケチだ」も、その言葉を使うひとの相手に対する心象意図が込められているので、その通りに相手や社会に伝わってゆくのが一般的である。

国会では、某議員が党の集会で発し、某大臣がとあるパーティーで使った「強行採決」という言葉で審議進行が混乱している。

なぜそれだけで混乱するのか。

それは、「充分な審議を経て結論を得る」という国会の信義則からあらかじめ逸脱するという意味であり、審議不十分であろうとも「多数決による結論ありき」の非協調姿勢でいいという含みが、この「強行採決」という言葉にみられるからだ。

言論の府といわれている国会が、意図的な強行採決で得られた結論を了とするわけにはいかない。国民にとって充分に必要な時間をかけて審議しなければならない内容であれば、一定時間を経たから採決の環境が整うという国会での慣例も、時には脇に置いておくことが大切な場合だってあるはずだ。

「強行採決」は、まったくもっていい意味ではとらえられないものなのだ。

東村高江の米軍へりパッド建設工事現場では、警備にあたっている警察官が反対行動の住民に対して、「土人」、「シナ人」という言葉を発したことで問題が生じている。

公務についている以上、一般的個人という位置よりも厳しい規律が課せられている場合、その言葉を意図的に使うことに対する非難の声も、一般的個人が使う場合より、より厳しいものとなる。

深刻な社会問題となっていた民族差別などを街頭であおるヘイトスピーチの対策法(ヘイトスピーチ解消法)が6月に成立した。

「不当な差別的言動は許されないことを宣言」し、人権教育や啓発活動を通じて解消に取り組むと定めた理念法で、罰則はない。

差別的言動の解消に向け、国や地域社会が、教育や啓発広報、相談窓口の設置など「地域の実情に応じた施策を講ずる」よう定めている。

ましてや、公務に就く者であれば何人に対してであろうとも、人権を傷つけたり尊厳を踏みにじる意味の言葉を使ってはならないわけだし、警察官であれば当然そのように教育を受けているだろう。警察官や自衛隊員が常に冷静にして沈着な言動を求められるのは、時にその強大な権力行使が認められているという立場でもあるからなおさらだ。

たかが言葉。されど言葉。

「口から出たら呑み込めない」という言葉づかいを戒める教訓がうちなー口にもある。

考えを言葉として口から出す前に、もう一度考えてから適切な言葉にする語彙の選択作業も大切なこと。

たかが、言葉。 されど、言葉。

語彙の獲得だけでなく、そのことの意味をよく呑み込んでおく努力もしておきたい。

趣きを味わうこと

ひところはしょっちゅう空を見上げては、潮の満ち引きの時間を気にしては、風の向きを調べたりしては、ひたすら「釣り」のことしか頭にない頃があった。もうずいぶん前だけど。

行かなくなってどれくらいか。懐かしささえ覚えるくらいのご無沙汰感があるなあ。

嫌いになったわけじゃないのだけど、今の仕事に就いてからは、ゴルフや釣りは「お金はかからないけれど時間的に自由がきく人たちの趣味」みたいな扱われ方、見られ方をされてしまいそうで、それはちょっとマズイかな、と敬遠しているようなのもある気がしている。

近所のホームセンターでちょっと買い物していても「今日はヒマなんですか?」みたいに言われることもあるから、人目に付くような海岸ばたで竿でも出していようものなら、「釣れますか?」じゃなくて「釣りする時間もあるんですね」なんて言われかねないという怖さみたいな。

そう思うとこれ、なかなか釣りに行くことが難しい。実に困ったものだ。

ならばいっそのこと、いかにも「今日は、これですね、接待なんですよ」という雰囲気を醸し出してみようかと、下手な企画を考えてみることもある。

しかし、「ゴルフは接待だからやったほうがいい」とは聞くけれど、釣りがそういう風に言われていることは自分の周りでは今まで一度も聞いたことない。

おそらく、ゴルフは何人かのパーティーで回るから人間関係の繋がりにはよくて、釣りはほとんど単独行動だから「あくまでも自分の世界」みたく見られているのではなかろうか。

そうとすると、一人になりたいときに人は海を見つめに行きたくなるように(なんだか歌の世界みたいだが)、世間の煩わしさからひととき逃げる時間、人から離れて考え事に没頭したい、と欲するならば、釣りはまさしくそれにとてもよくマッチする趣味だといえる。

ゴルフのようにみんなでワイワイ言いながら楽しむのもいいけで、誰にも気兼ねすることなく自分の時間を自由に使えることこそ、「趣を味わう」のに向いているんじゃないだろうか。

まあ。理屈はどうあれ、要は「釣りに行きたい」という今日の本音、でした。

 

ひとこと そのに

政治家はブレちゃいけない。筋を通さなければいけない。

こういういわれ方や考え方は、政治家に限らず人としての道理にも通じているものであるから、個人としての自由な思想信条に基づき、その行動に社会的適合性が正常であれば、ほとんどの人に、前向きな姿勢なども含めて理解されうる言葉表現だろうと思う。

しかしである。

例えば、守るべきものを破壊する側の考えや立場にいる人が、「私はそれを守るために真摯に取り組みます」というのは、破壊する側から離脱するか、もしくは「考え方を改めました」と宣言説明しない限り、破壊する側の人間であることは事実として免れないのではないのか。

こういう考えって邪推にすぎないのかなぁ。

 

ほんのひとこと

気が付くと板を放置したままです。すみません。

ブログをまめに更新するひとは本当に偉い。

しかも毎日一回どころか日に何度も更新するのはこれはスゴイと思う。

Facebookが登場してから、日々の雑感やら写真などを気軽に書き残していると、

どうしてもブログの更新が疎かにされてしまう傾向については以前にも書いたのに。

進歩がない。まったく。

両方がいっぺんにupできる工夫がないかな~。

ここまで書いているうちに席を離れなければならない時間になった。

すみません。こういうことの連続です。