熱中症対策を

今年2018年の夏は梅雨明けが例年より早かったこともあって全国で猛暑の日が続いている。中でも怖いのは熱中症による症状で、場合によっては重篤化したり死亡することがある。すでに2万人強の方が病院へ搬送されたり手当てを受けていて、亡くなられた方は70人近い。気候・暑さのせいで命を落とされることは本当に気の毒でならない。玉城の周りにも、気が付かないうちに熱中症の症状でダウンした、点滴を受けたなどの話しが聞こえるようになってきたから、本土より比較的風があって涼しいといわれている沖縄とて油断すべきではないということだろう。思い出してみれば子どものころ、直射日光に長い時間あたり過ぎると「日射病にかかる」と教えられた。暑い最中には帽子をかぶること、水を飲むこと、日陰で休むことなど、大人の方からそう教えられた。あの当時は熱中症という言葉もなく、暑さで倒れるということは学校の朝礼などで気分が悪くなる生徒がいたくらいではなかったかと記憶している。しかし昨今の日本だけでなく世界的な気候変動や自然環境の変化は、従来営まれてきた人の生活感をも狂わせてしまっているのかもしれない。過去の生活の記憶は今の時点では通用しないということを考えれば、「生命を維持するための体調管理」にはこれまでの経験や感覚以上の注意を払うことが必要だということだ。熱中症対策としてすぐできることを考えると、暑さを感じるときには水だけでなく塩分や糖分ほかミネラルなども早め早めに補給すること、熱気をとどまらせずに部屋の窓を開けるなど風通しをよくすること、夜も暑さで寝苦しいときには、扇風機もいいが部屋に付いていれば室温を適宜保つためできるだけエアコンも使うこと、などだろうか。熱中症は決してあなどれないと気を付けねば。長い夏はまだまだ続く。

神経構造

どういう神経の構造になっているのか安倍晋三総理。

 

それだけは言いたい。それ以外は胸に収めておく。あまりにありすぎて。

おねがいごとひとつ

胸の内がま~だすっきりしないのでいっそお願い事を書いておくことにしました。

 

国会議員になる以前から6月23日は毎年、県主催の全戦没者追悼式典に参加している。

戦争で母方の叔父二人を亡くし、祖父とともに式典会場の摩文仁にある「平和の礎(へいわのいしじ)」にも名前が刻銘されている。

年に一回でもと追悼式にあわせて礎を訪ねては手を合わせ安寧を祈る。

 

追悼式典にはご遺族や一般の参拝者の他に、総理、衆参両議長、沖縄担当大臣、防衛大臣などの政府要職に加え、国会・県会・市町村会の議員や自衛隊幹部、米軍幹部、米国大使、在沖米総領事なども参加する。警備警護の様子は物々しいが、去る大戦んで亡くなられたすべての御霊へ届いてほしいと、誰もが恒久平和を願い、御霊へ追悼の祈りを捧げる厳かな式典である。

 

翁長知事の平和宣言や子どもたちから募集した平和の詩の朗読の時には、参列者から暖かい拍手が送られる。

 

ところがいつの頃からか、特に総理のあいさつの前後のタイミング(演台に向かう・降りるなどの際)に

会場内のどこからか、総理に対して声が飛んでくる。

 

おそらくそれは総理挨拶の中で述べられる言葉~「沖縄における米軍基地の負担軽減をすすめる」というくだりと、現実に強行されている辺野古新航空基地建設との不条理な状況があるからであろうと玉城は勝手に推測している。

挨拶の内容と現実の行動が伴っていない総理に対して猛省の声をだしている、ということなのだろうと思う。

 

他方で「総理、ありがとう」という声も、ロープで仕切られた会場外のどこかから飛んでくる。

公務多忙の中参列していただいていることへの御礼の気持ちだろうか。

私には何に対して「ありがとう」と大きい声を出して礼を述べているのか分からない。

 

感動感謝の拍手ならともかく、この賛否どちらの声にしても、厳粛な式典にふさわしくないのではないか

という気持ちをされる方が少なくないであろうということです。

 

戦争で亡くなられた御霊に、心から哀悼の思いをつげていただく時間。

心静かにただこうべを垂れ手を合わせる。

 

「もう二度と戦争しない、戦争させない政治と社会をつくるのだ」という気持ちを祈りと共に

強く思っていただきたいという個人的な立場からのお願いごとです。

 

言いたいこともありましょう。

叫びたい思いもありましょう。

万人にそれぞれの事情はおありのことだとお察しいたします。

 

されど、やはりそこは祈りの式、祈りの場、祈りの時間です。思想信条を乗り越えて平和への道を歩む誓いの式典です。

 

かつて悲惨を極めた戦争につながる政策を実行した日米両方の現在の政府や軍関係者も慰霊のために参列しています。国・地域の隔てなく名前が刻まれている平和の礎は万国の恒久平和への願いが込められたモニュメントでもあります。

その場所で、参列する方々の心を乱すような大声はどういうものであろうとも

やはり聞くに堪えないのではないでしょうか。

 

来年からは、本来の厳かで静粛な式典に遺族のひとりとして哀悼の誠をもって参加したいと願う次第です。

 

トゲらないことばを

日常からあまり汚い言葉を使わない世代だと思うことがよくある。

よっぽどのことが身の上に起こらない限り、自分が言われて嫌な言葉は

普段の生活では使わない。年齢が近い周りの知人もそのタイプが多い。

 

なぜそのことについてわざわざ言うかというと、ネット中心コミニュケ社会は

相対せずに通信するため、顔の表情や手足のしぐさやその人の持っている雰囲気が

なかなか伝わりにくいのだが、それの最大欠点が社会問題にもなっているからだ。

 

ネット上で使っている言葉が会話をしていて現実に口をついて出てしまう。

意図的に使っていないか?と思わざるを得ない場面に遭遇することも。

差別や中傷や勝手な思い込みによる罵詈雑言がふいに自分の口から出ても

本人は全く気が付いていないということも多いと聞く。

コミュニケ障害という言葉もあるくらいだ。今の社会は個人の意思が伝わり

にくい環境にすでに陥ってしまっているのだろうか。

 

しかし言葉=コミュニケーションは、相手に伝えたい・伝えよう・言葉を介して

気持ちを理解しよう・理解してもらおう、そういうように自分の考えや思いを

丁寧に、正しい言葉を使ってこそ成り立つものだと思う。ネットであれ直の会話

であれ、使う言葉を丁寧に選んでいけば、相手に自分の真意はしっかり伝えられる。

問題なのは、言葉に対する思いが軽い、言葉遣いに意識を持たない、ということかも。

 

「くとぅば、じんじけー=言葉はお金と同じように大切に使いなさい」

沖縄の教訓にはそういう内容のものもある。大切なことは大切にする気持ちがそれに

込められてはじめてその人の思いが相手にキチンと伝わって会話が存立できるものなのだ。

 

意識して、相手の心にトゲとなって刺さらない言葉遣いを心がけなければいけない。

言葉を大事にすることは大人の責任でもあり、社会人としての役割でもあると思う。

読書という息抜き

本を読むのは好きなほうだ。そう難しくない本を乱読?雑読?するという

感じで。もちろん週刊誌もムック本も範疇に入れてのトータル感で「読書」

と、なにやら高尚な香りをふりまいているのだけど。

 

怒る方がいるかもしれないが、実は読書を趣味にしているという割りに小説系

は読んでいない。読み込むまでの勇気と読み切るまでの忍耐が絶対的に足りない

ことを自分でよく知っているからという言い訳で。

 

なので一気に読み切れるページや内容の本が自分の「読書」のほぼ中心をなす。

 

読みたい本の場合には若干時間がかかっても読み切るよう努力するが、分断的に

時間をかけて読むと、前に読んだところの内容を忘れてしまい、また少し戻して

読み返したりするからこれが結構きく。今までの努力がぷちっと切れてしまう。

そうなったら本棚の飾りとなってそれからはなかなか手が伸びていかないという。

 

新しい本を買う。今度買うのは椎名誠さんの新作だから楽しみだ。

椎名さんの作品はエッセイがほぼ中心なので気軽にそして楽しく読める。

 

仕事に関する本もこういうふうに気軽に楽しく読めるようになれないかなあ。

 

米朝会談の向こうへ

2018・6/12、米国と朝鮮人民共和国(北朝鮮)の両首脳による

歴史的な会談がついに行われた。これまでにも数次の協定合意

がなされてきたが、北朝鮮を取り巻く各国の思惑が絡み、真の

合意履行は反故にされてきたという経緯もあり、これですべて

がスムーズにいくという確信的なことは言えないかもしれない。

 

しかし、和平に向けての第一歩だとすれば期待をかけた努力

を惜しむものではない。拉致被害の問題という重い課題はある

ものの、日本国もこれまでの圧力一辺倒から、より柔軟な姿勢

を国際社会と協調しつつ整えていく好機ともとらえればいい。

 

政治の責任はその国の国民に背負わせるものではない。

 

国民への支援、特に食料や仕事などの生活上必要な支援策を

いつでも提供する用意があること(実際にそうすること)が

国家間の協議進展にある種の付加価値があるならば、そのこと

を惜しむべきでない。

 

相互理解から始まるのが協調政策ならば、個別の課題について

も、米朝会談のこの機会を相互理解を深める第一歩にするべきだ。

 

相互理解が早く進めば問題・課題解決のゴールも早いだろう。

冷静に、しかし穏便に。これから先へ向っていく思考をしたい。