単純にして明朗に

楽しいことをやっているときはまちがいなく表情にでるタイプの玉城はよく「顔が違う」と言われることがある。

このあいだも娘に「なに厳しい顔して携帯メール打ってるの?」と言われたし、玉城は地元コミュニティーFMで音楽を紹介する生の番組を週に一回持っているが、そのONAIRの様子を写真に撮りに来た玉城の事務所スタッフから「顔が全然違いますね」と言われた。

つまり仕事の時はやはり険しい顔をしていることが多く、趣味や楽しいことを満喫しているときには相当にゆるんだ顔になっているという話し。しかも、玉城は誰よりもその時その時の表情の違いがハッキリ分かるタイプなので気分や感情度合いまでも図りやすい、ということのようである。

別にそういわれてもいい気分も悪い気分もしないけど、な~んとなく、なんとなく、大人の男の陰りというかダンディズムみたいな世界とは180度縁がないのだというような寂しさは、一応感じるよね。しかも、結構そういうダンディズムの世界には誰もがちょっとは憧れていたりすることもあるので、陰りのない男=幼い、みたいに見られていると思うとやっぱり抵抗感もあったりする。

ところが、自分で言うのもアレだけど物事に対する考えは「シンプルにしてたくさんあればいい」と普段から考えているし、そう考えたうえでシンプルにマイペースでマルチに行動しているから、自分自身にはそっちのほうが極めて楽なのである。多少の憧れはあるにしても、わざわざ陰りのある男をいちいち演出しないで「そういうタイプではない」と割り切るほうが、別段不自由もなければとってつけた誤解も生まれずに済む。

結論。分かりやすいほうがいい。表情も性格も行動も。

 

容姿一枚

最近、自分と同じようなハーフに生まれた若い世代の方と接する機会が増えている気がする。

ハーフという定義は、思うに実に変だよな。みんな生まれてくるときは父や母の血統の影響を受け継いで生まれてくるのだから、本来は全員がハーフであるはずだ。世代によってはクォーターなどのいい方もあるけれど、生殖体系的に考えたら父と母の要素を受け取って生まれてくるという存在でしょう。ただ見た目的に「日本人と違う皮膚や髪や目の色」という外見上から「日本人とは違うのではないか」という感覚がもとになって「ハーフ」と呼ばれているのではないかと思う。

ハーフと呼ばずにダブルとかいろいろな呼び方もあるけれど、自分みたいに慣れてしまえばハーフと呼ばれても構わない。呼び方についての根本的な問題は「そう呼んで区別する・区別されている」という差別や蔑視の意識が入り込んだり垣間見えたりすること。しかし、ここでそれを考えるとそもそもからめんどくさい話しになるので、ここでは「そういう差別の意識はない」ものとして、ハーフについてちょっと書いてみてみたい。

 

玉城の父は米国人、母はウチナーンチュで日本人。一般的に「ハーフ」と呼ばれる分類系の側にいる人間である。一人っ子。国籍日本。

人としてこの世に生を受けたことから考えると、国籍や親権などの法律的な現実問題はあったとしても、生まれた場所や家族関係や育ちの違いなどは人それぞれなので、ハーフだからとかじゃないからとかはその人それぞれの考え方、捉え方次第ではないかと思っている。

生まれる前から生まれた後の人生のスタートは選べないし、生まれた後の人生は、時間の経過やそれに伴う個人の成長や環境の変化などによってどうなるのか予測は難しい。

もし人生のスタートが違うとすれば、家庭や住んでいる地域などの周辺環境によってある程度違いがあるかどうかじゃないかなと考えるくらいだったし今でもやっぱりそう思っている。

だからどう生まれてこようとも、ひとりの人間として、自分がどう生きて生きていきたいのか、それについて折々に考え、その都度の答えみたいなものを、自分の力で探しながら生きてゆけたら、それが生きることの喜びになるのじゃないだろうか。しかも、幸いにして体が健康であれば本来はもうそれだけでも感謝に尽きないと思うし。

ハーフと呼ばれてもこの年になればもう違和感はないけれど、さすがに慣れるまでにはいろいろな体験をしたことは事実だ。それらの体験もまた、生きていく経過の中で活かされていくこともいっぱいあるんじゃないかと受け止めている。

面倒だからと無視を決め何も考えないよりも、いろいろなことを考えてじぶんからひとつひとつ答えを見つけるのは案外悪くない。自分で得た答えは、自分が努力した結果の成果だから、自分の宝物同然だ。心の中にたくさんの宝物を持っていると思うと、その自分にしか見えない宝をもっともっと探して手に入れたい、と自然に前向きになっていける。

その前向きな気持ちがあれば、自分が関わる誰かに対して敵意を持つ必要も悪意を抱く卑屈も遠ざけることができると思う。そうか、これこそ専守防衛・平和外交の原点か!笑 と冗談もいえたりできるし。構えを解いて力を抜けばそれですっかり気分は楽になる。心配しなくても戦う時にはしっかりモードが切り替わるものだから。笑

そうして生きてきたから、たぶんこれからもそうしていくだろう。

それが自分にとって最も楽な生き方だから社会の迷惑になることもないだろう。

ハーフに生まれたみんなが、例えばそうやって、自分だけの見えない宝ものを探していくことが楽しいと思ってくれたら、きっと今以上に輝く自分を発見できると信じている。

最後にエピソードをひとつ。

母子家庭だった玉城は幼い頃、母が住み込みで働かなければならなかった事情から、血の繋がっていない他所の家族の中で養い子として預けられて育った経験がある。とてもいい家族でみんなが本当の家族として接しくれたし、今でも玉城にとっては家族同様の人たちに変わりない。

その家のお母さんが、ハーフだからということで年上にいじめられたりした泣き虫の自分によくこういう話をしてくれた。

「かーぎや、かーどぅやんどー(人の姿は皮一枚でしかないよ=中味はみんな同じ人間なんだよ)」と。「人の容姿なんて、皮一枚の違いさ。泣くことじゃあないよ」と。

今でもその言葉が自分を根本から温かく支えてくれていることをとても誇りに思っている。

 

 

「ママが言ってた。人生はチョコレートみたいなもの、だって。食べてみなけりゃ、中に何が入っているのかわかんない、ってね。」~映画 「フォレストガンプ」より~

 

休み。ふと考えた

今年のゴールデンウィーク、長い方なら4月29日から休暇に入って5月8日にまで時間が取れたら約10日間、自分時間が作れたことになっている。

玉城は4日に母の故郷である伊江島に夫婦して一泊で行って帰ってきたから、それが唯一の「休みと言えば休み」だった。それ以外の日は普段通りの業務をしていたから、「GWはあってなかった」ものだった。今年も。

ふと考えたのだが、長い休みも使い方次第ではまあ大変だろう。

お金をかけるかかけないか、旅行へ行くか行かないか、それだけでも休日の使い方が変わるだろうし、誰と、何をするか、それを考え始めたらもうキリがない。誰のための休みなのかで目的そのものが如何様にも作られてしまう。長い休みを取ったがために。

これ、はっきり言うと「休みに疲れたGW」という感想をもっている方も少なくないんだろうなあ。

結論。家族や誰かを喜ばせることが休日の目的になかったならば、せめて自分のために使うことを優先したいもの。体力気力財力の温存をリユウニシテ。

落ち着く居場所

先日地元で、ある教会と、子ども食堂と、国際的な婚姻問題の解消を支援する団体の事務所がひとつの場所に一緒にオープンする式典へ参加させていただいた。

主体者である教会の牧師さんは、これまでもホームレスの方へ食事を提供する支援などを行っており、今回は家庭的に貧困などの問題を抱えている子どもたち(大人も含めて)や、外国人と結婚したがその後の離婚問題や、子どもの養育などについて法的な支援を必要とする(困っていると思われる)方が足を運んでいただければ、という思いからその拠点として設置することになったと伺った。

子どもであれ成人であれ、問題を抱えて困っている人が頼りにできる場所や人がいるということは本当にありがたいことと思う。

困っている方が直接役所や関係機関へ相談に行きたくても、問題が重くて自信を失いかけていたり、相談に行く時間がなかったり、何から手掛ければいいのか全く見当がつかなかったり…悩みはいくつもあるだろう。

そういう問題を抱えている方が気軽に足を運べる場所があり、少しでも話しを聞いてもらえる方がいるというのは心強いだろう。子どもたちだって、ひとりでいるより仲間がいた方が気分も張れれば、一緒になって遊ぶ方が楽しさも全然違ってくるだろうし。

式典が進行する間、できるだけ多くの人の暮らしに行政の支援の光がしっかり当たることを助けなければと考えていた。求めているそこへ「届いてこそ本当の支援なのだ」と。

 

たのしいご飯

沖縄県の翁長知事による「県子どもの貧困対策推進計画(仮称)素案」が発表された。

幼児・小中学生・高校生・若者へと、ライフステージごとにそれらに見合った施策を提示して切れ目のない支援を目指す内容となっている。いよいよ抜本的な支援策が講じられることを大歓迎の期待をもって、自分にもやれることを全力で協力していきたい。

さて計画素案の詳細についてはここでは触れないが、県による子ども実態調査の結果も公表されていて、その一つの「貧困と孤食」について考えてみたい。

この調査によると、貧困層の子どもほど平日の朝食・昼食を親や兄弟と一緒にではなく、「一人で食べる」と答えた割合が高いとされている。

小学校5年生と中学2年生の対象比較になっているが、やはり高学年になるほど孤食になるパターンが増えるようである。

まあ思春期によくある行動パターンじゃないか?というように受け取られるかもしれないが、問題の視点は貧困との関連性があるかをみることである。

例えば、子どもの食事を用意するのが「お母さん」とするなら、「食事の支度をする時間に働いているのではないか」という見方もあり、働く時間の長さや複数就労なども浮かんでくることが考えられる。時代背景も変わるし、家族の形態も今や核家族が平均構成となっている。だからこそ、実態の調査から浮かんでくる問題点を、多角的な観点から見つめていくことが肝心なのだと考えるべきではないだろうか。

玉城の個人的な価値観からすれば出来る限り子どもは家族で食卓を囲むほうがいい。

自分の子どもたちとも、できれば朝食などはそうやって一緒に食べる時間をつくる工夫を夫婦でしてきた。もっとも、それを主張して実行させたのは家内の力(意志と行動力)の賜物だと感謝しなければ、なのですが。

子どもや親御さんが「家族の楽しい時間」が作れることにどのような支援ができるか。

県の取り組みもたくさんの希望と笑顔につながればいいなぁ。自分も頑張ろう。

 

 

やっと見えてきたこと

子供をめぐって、子供たちの生育や生活環境と教育への影響、子供のいる家庭の貧困状況の現実的な問題、あるいは社会の中での子供たちに対する支援のありかたなど、これまで、おそらくは一般的に世間の中で語られてきていたこと、自分や回りの身近にも感じていたような課題・問題とその深刻な状況などが、やっと政治(行政や議会)の大きな課題であることがメディアに出てき始めている。

待機児童の問題が政治における重要な課題であることは耳にしていても、こと家庭の貧困と子供たちへの影響のようなことになると、まるで「貧困は個人の問題で、待機児童は政治(行政)の問題」と言わんばかりに、どこかで区別されていたのではなかったかと思えてならない。

しかし、やっと、貧困は個人的な問題どころか社会全体を蝕んでいく深刻な問題なのであり、ことに子供たちがいる家庭での貧困は、地域に限らず、日本全体における将来の在り方について危惧されるべきものなのであり、ゆえに徹底的かつ長期的な対策がとられるべき重要課題なのだと認識されることになった。

貧困はつらい。貧困は重い。個人個人で頑張れること、倹約して切り詰めて生活する、子育てするにも、限界がある。欲しいからと言って収入がすぐに増えるなんてことはめったにない。思い余ってギャンブルに手を出し、わずかな生活費を増やすどころか失ってしまったという話しは決してドラマのストーリーなどではない。あぶく銭すら簡単には手につかめないのも現実だからだ。

どのようにしてこの貧困の問題をとらえ、解消解決に向けて取り組んでいけるのか。

ひとついえることは、子供たちのまなざしの先に、この問題に対して真剣に向き合い、知恵をだし汗を流して取り組んでいる大人の姿を見せなければいけない。いろいろな場所で、自分たちのために、親だけでなくて、いろいろな大人たちががんばっている。

そういうことが子供たちの励ましになれるように、政治(行政・もその責任をしっかり背負っていくことを、この国に住まう人々に証明していかなければならない。