はるかなあこがれ

その道のプロと言われている人にもいろいろいる。

プロらしさを表に見せないことをスタイルにしている人は、人の見えない部分を磨こうとスゴイ努力をしているひとでもある、と聞く。

表から見てもウラから見ても誰もが「そのひとはプロだ」とみられる人も、やはり自分のやることに自信を持つための、出来る限りの努力を積んでいるひとが多いと聞く。

そして、美貌であれテクニックであれ知識であれ、必ず何か「その人なりのプロとしての技術」を身に着けていて、それを持続させるための継続的な磨きを怠らない生活をするように心がけているのである。

「その道のプロ」として言えるようなものが、なにかひとつでも確実につかめれば、持っていれば、それが自信になって次の展開に繋がってゆくものだと思う。

自分にそれがあるとすればなんだろうなぁ。

肉を食べない、ビールを毎日飲む、下着を毎日替える、コンビニでもどこでも買い物した時にはこちらからも「ありがとう」と言う、物事の準備を怠らない、そんなことくらいかなぁ。

こんなことよりも明らかに欠点の方がもっともっと多い気がするなぁ。

プロの道は相当遠いなぁ。

ことのは考

言葉は、使われるそのときの言葉の持つ意味以外に存在しない。

「おはよう」はひとつの挨拶であり、「ずるい」は卑怯な手段や考え方など指摘するものである。

そして言葉は、使われ方や意図的な含みを持たすことによって、その言葉の意味通りに相手や社会に伝わってゆく。

その人が普段から思ったり、考えたりすることが、その人の有する語彙~ボキャブラリーになることからしても、そのひとが考えてもいないことが言葉となって出てくることはない。

「あのひとは素晴らしい」も「彼はケチだ」も、その言葉を使うひとの相手に対する心象意図が込められているので、その通りに相手や社会に伝わってゆくのが一般的である。

国会では、某議員が党の集会で発し、某大臣がとあるパーティーで使った「強行採決」という言葉で審議進行が混乱している。

なぜそれだけで混乱するのか。

それは、「充分な審議を経て結論を得る」という国会の信義則からあらかじめ逸脱するという意味であり、審議不十分であろうとも「多数決による結論ありき」の非協調姿勢でいいという含みが、この「強行採決」という言葉にみられるからだ。

言論の府といわれている国会が、意図的な強行採決で得られた結論を了とするわけにはいかない。国民にとって充分に必要な時間をかけて審議しなければならない内容であれば、一定時間を経たから採決の環境が整うという国会での慣例も、時には脇に置いておくことが大切な場合だってあるはずだ。

「強行採決」は、まったくもっていい意味ではとらえられないものなのだ。

東村高江の米軍へりパッド建設工事現場では、警備にあたっている警察官が反対行動の住民に対して、「土人」、「シナ人」という言葉を発したことで問題が生じている。

公務についている以上、一般的個人という位置よりも厳しい規律が課せられている場合、その言葉を意図的に使うことに対する非難の声も、一般的個人が使う場合より、より厳しいものとなる。

深刻な社会問題となっていた民族差別などを街頭であおるヘイトスピーチの対策法(ヘイトスピーチ解消法)が6月に成立した。

「不当な差別的言動は許されないことを宣言」し、人権教育や啓発活動を通じて解消に取り組むと定めた理念法で、罰則はない。

差別的言動の解消に向け、国や地域社会が、教育や啓発広報、相談窓口の設置など「地域の実情に応じた施策を講ずる」よう定めている。

ましてや、公務に就く者であれば何人に対してであろうとも、人権を傷つけたり尊厳を踏みにじる意味の言葉を使ってはならないわけだし、警察官であれば当然そのように教育を受けているだろう。警察官や自衛隊員が常に冷静にして沈着な言動を求められるのは、時にその強大な権力行使が認められているという立場でもあるからなおさらだ。

たかが言葉。されど言葉。

「口から出たら呑み込めない」という言葉づかいを戒める教訓がうちなー口にもある。

考えを言葉として口から出す前に、もう一度考えてから適切な言葉にする語彙の選択作業も大切なこと。

たかが、言葉。 されど、言葉。

語彙の獲得だけでなく、そのことの意味をよく呑み込んでおく努力もしておきたい。

趣きを味わうこと

ひところはしょっちゅう空を見上げては、潮の満ち引きの時間を気にしては、風の向きを調べたりしては、ひたすら「釣り」のことしか頭にない頃があった。もうずいぶん前だけど。

行かなくなってどれくらいか。懐かしささえ覚えるくらいのご無沙汰感があるなあ。

嫌いになったわけじゃないのだけど、今の仕事に就いてからは、ゴルフや釣りは「お金はかからないけれど時間的に自由がきく人たちの趣味」みたいな扱われ方、見られ方をされてしまいそうで、それはちょっとマズイかな、と敬遠しているようなのもある気がしている。

近所のホームセンターでちょっと買い物していても「今日はヒマなんですか?」みたいに言われることもあるから、人目に付くような海岸ばたで竿でも出していようものなら、「釣れますか?」じゃなくて「釣りする時間もあるんですね」なんて言われかねないという怖さみたいな。

そう思うとこれ、なかなか釣りに行くことが難しい。実に困ったものだ。

ならばいっそのこと、いかにも「今日は、これですね、接待なんですよ」という雰囲気を醸し出してみようかと、下手な企画を考えてみることもある。

しかし、「ゴルフは接待だからやったほうがいい」とは聞くけれど、釣りがそういう風に言われていることは自分の周りでは今まで一度も聞いたことない。

おそらく、ゴルフは何人かのパーティーで回るから人間関係の繋がりにはよくて、釣りはほとんど単独行動だから「あくまでも自分の世界」みたく見られているのではなかろうか。

そうとすると、一人になりたいときに人は海を見つめに行きたくなるように(なんだか歌の世界みたいだが)、世間の煩わしさからひととき逃げる時間、人から離れて考え事に没頭したい、と欲するならば、釣りはまさしくそれにとてもよくマッチする趣味だといえる。

ゴルフのようにみんなでワイワイ言いながら楽しむのもいいけで、誰にも気兼ねすることなく自分の時間を自由に使えることこそ、「趣を味わう」のに向いているんじゃないだろうか。

まあ。理屈はどうあれ、要は「釣りに行きたい」という今日の本音、でした。

 

ひとこと そのに

政治家はブレちゃいけない。筋を通さなければいけない。

こういういわれ方や考え方は、政治家に限らず人としての道理にも通じているものであるから、個人としての自由な思想信条に基づき、その行動に社会的適合性が正常であれば、ほとんどの人に、前向きな姿勢なども含めて理解されうる言葉表現だろうと思う。

しかしである。

例えば、守るべきものを破壊する側の考えや立場にいる人が、「私はそれを守るために真摯に取り組みます」というのは、破壊する側から離脱するか、もしくは「考え方を改めました」と宣言説明しない限り、破壊する側の人間であることは事実として免れないのではないのか。

こういう考えって邪推にすぎないのかなぁ。

 

ほんのひとこと

気が付くと板を放置したままです。すみません。

ブログをまめに更新するひとは本当に偉い。

しかも毎日一回どころか日に何度も更新するのはこれはスゴイと思う。

Facebookが登場してから、日々の雑感やら写真などを気軽に書き残していると、

どうしてもブログの更新が疎かにされてしまう傾向については以前にも書いたのに。

進歩がない。まったく。

両方がいっぺんにupできる工夫がないかな~。

ここまで書いているうちに席を離れなければならない時間になった。

すみません。こういうことの連続です。

戦没者祈念式典2016

今年も6/23の慰霊の日に合わせて沖縄県が主催する「沖縄全戦没者追悼式典」へ参加した。夏本番となった猛暑の中、多くのご遺族並びに関係者が集い、沖縄戦で犠牲となった24万余の御霊と、去る戦争で亡くなった御霊への鎮魂を祈る姿も多かった。

 

式典には内閣総理大臣、衆・参両議長、外務・防衛・厚生労働の各閣僚、遺族会会長、米軍関係者などが出席、米軍以外の来賓から追悼の言葉や挨拶などがあった中、遺族会会長が「これ以上の新たな米軍基地に私たちは反対する」と静かに述べられた思いに感じ入った。

その中でも、玉城の心に最も深く染み入ったのが翁長雄志沖縄県知事が発した平和宣言であった。会場からは宣言の合間にも拍手が起こり、宣言を述べ終えた後はなお一段と拍手が大きかった。 読み上げられたその平和宣言全文をぜひ紹介しておきたい。

 

『平和宣言』

『太平洋戦争最後の地上戦行われた沖縄に、71年目の夏が巡ってきました。

沖縄を襲った史上まれにみる熾烈な戦火は、島々の穏やかで緑豊かな風景を一変させ、貴重な文化遺産のほとんどを破壊し、20数万人余りの尊い命を奪い去りました。

私たち県民が身をもって体験した想像を絶する戦争の不条理と残酷さは、時を経た今でも

忘れられるものではありません。

この悲惨な戦争の体験こそが、平和を希求する沖縄の心の原点であります。

戦後、私たちは、この沖縄の心をよりどころに、県民が安心して生活できる」経済基盤を作り、復興と発展の道を懸命に歩んでまいりました。

しかしながら、戦後71年が経過しても、依然として広大な米軍基地が横たわり、国土面積の0,6パーセントにすぎない本県に、米軍専用施設の約74パーセントが集中しています。

広大な米軍基地があるがゆえに、長年にわたり事件・事故が繰り返されてまいりました。今回の非人間的で凶悪な事件に対し、県民は大きな衝撃を受け、不安と強い憤りを感じています。

沖縄の米軍基地問題は、我が国の安全保障の問題であり、日米安保体制の負担は国民全体で負うべきであります。

日米安全保障体制と日米地位協定の狭間で生活せざるを得ない沖縄県民に、日本国憲法が国民に保障する自由、平等、人権、そして民主主義が等しく保障されているのでしょうか。

真の意味で平和の礎(いしずえ)を築くためにも、日米両政府に対し、日米地位協定の抜本的な見直しとともに、海兵隊の削減を含む米軍基地の整理縮小など、過重な基地負担の軽減を先送りすることなく、直ちに実現するよう強く求めます。

特に、普天間飛行場の辺野古移設については、県民の理解は得られず、これを唯一の解決策とする考えは、到底許容できるものではありません。

一方、世界の国々では、貧困、飢餓、差別、抑圧など人命と基本的人権を脅かす、多くの深刻な課題が存在しています。

このような課題を解決し、恒久平和を実現するためには、世界の国々、そして、そこに暮らす私たち一人一人が一層協調し、平和の創造と維持に取り組んでいくことが重要であります。

私たちは、万国津梁の鐘に刻まれているように、かつて、アジアや日本との交易で活躍した先人たちの精神を受け継ぎ、アジア・太平洋地域と日本の架け橋となり、人的、文化的、経済的交流を積極的に行うよう、今後とも一層努めてまいります。

戦争の経験が息づく沖縄に暮らす私たちは、過去をしっかりと次の世代に継承し、平和の実現に向けて貢献を果たす上で大きな役割を担っているのです。

本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられたすべての方々に心から哀悼の誠を捧げるとともに、平和を希求してやまない沖縄の心を礎(いしずえ)として、未来を担う子や孫のために、誇りある豊かさを作り上げ、恒久平和に取り組んでいく決意をここに宣言します。』

平成28年6月23日

沖縄県知事 翁長 雄志