デマを止めるもの

人の話には、その本人自身の言葉でない場合はだいたい尾ひれがついているものだ。

いつだったか、友人がそのようなことを言っていたのは、お互いに共通の友人が起こした騒ぎの中身が、周りが騒いでいた内容よりも実は他愛もないことだったことを、自戒(?)をこめてこぼしたことを、ふと思い出したからである。

過剰な思い込みが誤解に発展し、あらぬことが事実に混ぜ込まれて広がっていく。

もしも、それに誰かが意図した内容を混ぜ込んでもほかの誰にもわからないまま、そのまぜこまれた嘘のストーリー=デマゴーグが拡散されていく。

ちょっと考えれば「それはどうなのかな」という疑問が容易に感じられたりするような場合でも、デマは人々の興味の波に乗って、どこまでもどこまでも広がってゆく。

例えばどこかでそのデマに匹敵するようなことが起こりそうな場合、ふたつの出来事は、地理的にも時間的にも全く関係性がないにもかかわらず、デマとして信じ込まされてしまうこともある。

2001年同時多発テロがアメリカで起こり、在沖米軍基地に出入りするゲートでのチェックがテロ対策のため相当厳しくなって渋滞まで起こしていたとき、「沖縄の米軍基地でテロがあるらしい」という誰かの憶測が、まるで台風が襲来するときのような「テロ予報」が発表されたかのようにまたたくまに広がり、その風評が修学旅行のキャンセル等を含めて、さまざまな分野に多大な影響を与えたことはまだ記憶に新しい。

確たる証拠もないのに、さも「そうらしい」というだけで信じ込まされる。

それが事実なのか、虚構なのか。誰にも正確な判断を求められないのであれば、まずは自分の地頭で冷静に考えてみるのが大事だ。「なんとなくそう思う」というだけでは、世間一般の興味の誘惑と同じ波に乗る心地よさの浅はかさには、なかなか気づかされない。

だからこそ、一歩止まって「まてよ」「ほんとかな」「他の波はないのかな」と考えを巡らせてみればいいと思う。

自分が乗っかっているこの波が、実は誰かが作った「人工の波じゃないかな」「ささいな波を大げさにあおっているんじゃないかな」とちょっと用心してみるだけで、その波に乗る興味から少し降りてみることも必要じゃないかと、どこかで感じていることに気づくだろう。

客観的な普通の思考力さえあれば、デマはたぶんその時点で止められる。

デマの波から自分で降りれば、デマの波の正体もはっきり見えるだろうから。

そしてもうデマの波の誘惑に乗らない自分になるし、「騙されない」という自分への自信になる。

デマを止めるのはやっぱり自分自身の良識=「心の声、地の頭」にかかっている。

スイッチ欲しい

仕事でも趣味でも物事に集中して取り組んでいると時々、目頭の間あたりがグァーッと痛くなることがある。

眼鏡をはずしてみても痛くなるのに変化はないから眼鏡が合わないわけではなさそうだが、肩がこるとか背中が張るとかならまだしも、目頭あたりに痛みがくるとまったく作業ができなくなる。

痛くて目が開けられないから何もできなくなるのも当然。でもその痛みで作業が止まってしまうと正直少し焦る。仕事なら特に締め切りの時間に追われるのはやっぱり避けたい。

しかし痛みが襲ってくるからしばらくは放置状態になる。そうすると締め切りの時間が気になる。気になってくると焦る。それでまた取り掛かるとすぐグァーッでまた止まる。ほんとに面倒な症状だ。

これは、何をするにももうすこし気持ちや時間にゆとりを持て、ということなのか。

気持ちのゆとりは時間のゆとり、とも考えられるが、自分にとって「ある時にあるのが時間、ない時に足りないのが時間」、みたいな感覚だ。仕事では特に。

そうなると今でも仕事前の資料の準備や読み込みでもかなりの時間が必要なのに、そこへゆとりをもって取り組むとなると、全体の時間の調整がうまくいくのか不安でもある。その時に限って前後の予定が詰まっていたりするから余計に。

結論。仕事モードを気楽に切り替えられるon、off、のスイッチが欲しい。

秋葉かジャパネットで売ってないかいな。

 

めまい~ミークラガン

「めまいを覚える」を一般的なうちなーぐちで表現すると「ミークラガンすっさー」という。ある年齢から上の者しか使わなくなっている表現言葉のひとつ。

眩しくてめまいがする場合よりも、物事が正しく行われていない場合に遭遇した際に、おもわず口からこぼれてくる、そんなニュアンスだろうか。

言っていることが分からない、話しの筋が通っていない、ごまかすようなことばかりしている(言っている)、あげくは「呆れてものが言えない」場合にも当然適用するだろう。

あまりにも理解に苦しくて頭がクラクラするような、そんな状態を表している。

めーなち、ミークラガンぬくとぅびけー。毎日がめまいを覚えることばかり。

国会にいる日々はミークラガンでフトゥフトゥー(怒りで熱くなる)の連続だ。

 

早くも2月

このブログから新年のご挨拶もできないうちに、カレンダーは早や2月になってしまった。

193通常国会も始まり、150日間の長い闘い(あくまでも自分との)をまた乗り越えていかなければならない。

何もしないのも自分次第。けれど努力を積むのも自分次第。

積んだ分だけ、より高い理想へ手が届く希望もそこから生まれていくし、育っていく。

それを考えると、今年もまた一年、初心を思い起こしつつも重ねた経験を活かすための思慮行動に移していくことだな。

自分への課題として、きっちりまっすぐに、じっくり考えきっぱり判断して取り組んで行かねば。

人生の時間の使い方は自分の心がきめるのだから。

初めてのスカイプ中継講座

12月12日、千葉大学の客員教授であるケン・ジョセフ氏の受け持つ「市民社会ゼミ」に参加する学生さんたちと、沖縄~千葉大をスカイプでつなげてやり取りをする中継講座が行われた。

スカイプの機能については「アメリカにいる孫と毎日やり取りしているよ。便利だね」など、周囲からもいろいろ話しには聞いていたが、自分がスカイプを使って動画送信と共に通話機能を使って学生さんたちと質疑応答するのは初めてのことで、1時間やり取りした講座の時間があっという間だった。

「政治を目指したきっかけとこれまでの道のりは?」「今国会で審議されているカジノ法案についての考えは?」「国会議員になってよかったと思うこと、つらかったことは?」「国の財政、国債、返還については?」「政党で、法案に同じ考えの方と違う方がいたらどうなる?」などなど、個人のことから国政に関することまで、ひとりひとりに実直な感性でるる質問してもらい、一問一答形式で、政治の専門用語に頼らず、出来る限りていねいに答えさせていただいた。

「好きな俳優、好きな映画は?」という質問に、ロビン・ウィリアムスやトム・ハンクスの名前を挙げて彼らが出演している映画はいい作品・好きな作品が多いことや、『最近話題の「君の名は。」や「シン・ゴジラ」も観に行きたいけれどその時間がなかなかありません』と答えたら、『お忙しいですね。頑張ってください』とやさしく励ましてもらった^^ うれしいですねぇ^^

今回、このようなスカイプ講座という貴重な機会を頂いたが、スカイプの使い方はそのアイディア次第だ。来年は「スカイプ活用計画」を立てて、いろいろな対話にチャレンジしてみようかな。